高倉毅議員の葬式で想う

 朝から小雪が時々降り、寒い一日でした。
昨日から急に寒くなり、冬将軍の到来を迎えたような日になりました。

午後1時から高倉毅議員の葬式がありました。市長、議長はじめ議員、市役所職員、
後援会、親族、市内各方面から500人を越す参列者がおり、改めて高倉議員の
幅広い支援者がいたことがわかりました。

平野県議を始め、議長、市長などたくさんの弔辞があり、昔を想い出しながら
高倉議員との最後の別れを惜しんだ言葉がありました。

最後に、長男から親族お礼の挨拶で「親父は病院で病魔との戦いに必ず勝つと信じて
頑張っていました。家族の前では普通どおりの親父でしたが、心中は大変な不安が
あったと思うし、孫達にとってもいいじいちゃんでした」涙を誘いました。

高倉毅議員は、私とは8年前から議員仲間として一緒に議員活動をやって来ました。
議会の中では、正々堂々と言葉を言う方で、腹に思った事は妥協はゆるさず徹底的に
追求していた姿を想い出します。

しかしながら、思いやりや情けは持っていて、ここが妥協点と思えば、今度は前向
きの言葉や援護する態度には敬服しておりました。

市長始め執行部は、高倉議員に助けられたことがたくさんあったと思っています。
また、スポーツも好きで、議員スポーツクラブのソフトボールでは8年間、名捕手
として活躍もして、監督も4年間やり、県下でも強いチームに立て直した議員でも
ありました。

さらに3年前より県体陸上選手としても活躍をしていました。
正選手にはならなかったが、試合前にユニホームを着て、監督に自分の走る姿を
見て貰おうとして早くからランニングを始めたりして、他の人達を喜ばせたことが
昨日のように思い出されます。

高倉議員の従姉弟が私の自宅近くに2人いました関係で、若い頃から性格や人柄も
知っていましたし、平野県議の選挙で一段と親密になり、あらゆることを相談や
話をしていました。

今回の病気のことも、5月ごろから本人もわかっていた模様で、大変な病気になっ
たと悔やんでいたが、最後まで頑張る姿を見て来ましたから、言葉を返すことも
出はませんでした。

11月には、常任委員会の視察や会派の視察にも同行して、さらに、11月27日
に12月議会の日程等を決める議会運営委員会で最後の委員長としてやり遂げ、翌日
から入院して、急に悪化して12月18日午後5時5分に逝去しました。

本当に惜しい方を亡くし、心が痛みますが、これからは高倉議員の分まで議会活動を
やっていくことが、高倉議員への恩返しになると思います。

高倉強議員のご冥福をお祈りします。

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